【42年前の今日】



さて、皆さんの中に「42年前の今日」つまり「1980(S55)年5月24日」に皆さんが何 をしておられたか
具体的かつ詳細に語ることのできる方がおられるでしょうか? 

 私はできます。 
何故なら「42年前の今日」は私が女房と結婚式を挙げた日だからです。 
つまり今日は私と女房の結婚記念日なのです。 
 今日はそれ、42年前の数々のエピソードに満ちた私の結婚式について述べてみたい と思います。 
 42年前、つまり1980年(昭和55年)の5月24日は土曜日で、今日のように良く晴れた 日でした。
 私と女房は小学校1年の時の同級生で、仲人も小学校時代の恩師でしたが、
岡山県津 山市の田舎の幼馴染同士であった私達は、
津山市中心部に当時出来たばかりの津山国 際(!)ホテルで式を挙げました。 

 当日は、羽織袴に紋付の花婿スタイルで自宅から式の行われるホテルへ。 

 ホテルの入り口では当日の受付役を務めてくれる友人が、
友人や会社の上司や先輩同 僚後輩などから私が無理やり(?)集めてきたお祝いの文章を
親父が徹夜でガリ切り (コピー機が普及したため今ではもう死語となってしまいましたが)して
作ってくれ た「結婚記念文集」を出席者に渡すために控えてくれています。 

 ホテルでは私は新郎の控え部屋で待機。 
暇を見つけて女房の控室を覗き、文金高島田に内掛けの花嫁姿の女房にこの日初めて 会う。 

 やがて二人と両家の親族が打ち揃ってヒノキ作りの結婚式場へ。 
式は神式。 
神主がゴニョゴニョと口の中で祝詞を唱えた後、二人で誓いの言葉を朗読。 
お神酒を三々九度で飲んでそれで式は終了。 
多くの招待客が待つ披露宴の会場へ。 

会場の扉が開けられて豪華なシャンデリアがまぶしく輝く中、結婚行進曲が鳴り響 き、
ホテルの係員と親類の幼女の持つ提灯に先導されて新郎新婦が静々と入場。 
生涯にそう何度もないであろう人生の晴れ舞台に立った二人は会場正面奥の新郎新婦 席へ。 

 テーブルの上は予め並べられた和洋中の料理の数々で溢れ、
その上をお袋自筆の 「寿」の字が描かれた美々しい和紙が覆う。 

やがて友人の司会で披露宴が始まり、仲人の新郎新婦紹介から両家の来賓挨拶や
友人 知人のスピーチやかくし芸の披露等で披露宴はつつがなく順調に進行。 
披露宴が始まってから2時間が経過して招待客のスピーチや歌や踊り演奏もほぼ出尽 くし、
あとは新郎新婦が再度控室に戻ってお色直しをしてきてキャンドルサービスや 
両家を代表しての私のお礼の挨拶の場面を残すのみという最後の段階まできて
その 「ハプニング」は起こりました。 


 私はホテルの係員に案内されて披露宴の会場から一旦外に出て私の控室に戻ったので すが、
色直し後に私が着ることになっていた濃紺銀色の洋装一式が控室の中に見当た らないのです。 
なにかの間違いだろうとは思ったのですが、洋装に色直しを済ませないことには
披露宴の会場には戻れない。

 困った私は和装のまま、新郎新婦不在のまま勝手に盛り上がっている披露宴会場の入 り口まで取って返し、
そこからホテルの係員に頼んでこっそり私の両親を呼び出して もらいました。

 「色直し用の洋装がない」と告げて「どこにそれがあるの」と尋ねた私の前で両親は 
お互いの顔を見合わせて目をパチクリ。 
最初、親父はお袋に向かって「お前が会場にもってくることになっていたんじゃな かったのか」と言い、
お袋も親父に向かって「お父さんこそ持ってきたんじゃなかっ たの」と言いあっていましたが、
やがて二人とも絶句。 
結婚式当日の忙しい中、お互いに相手が持っていくものとばかり思い込んだがゆえに 
色直しの洋装一式を自宅に置き忘れてきた事実に思い当たったからです。

 しかしここからの親父の決断と行動がすばやかった。 
大事な息子に大勢の招待客の前で恥を掻かせるわけにはいかないと思ったのでしょ う。 
すぐさまホテルから自宅に車で衣装を取りに向かいました。 
その時の親父には既に祝い酒が入っていたと思いますし、
日頃は小学校の厳格な教師 として法律厳守の見本みたいな親父ですが、
息子の一大事にそんな些事にはかまって いられない。 
交通信号にも勿論かまっていられない。 
赤信号を全部突っ切って自宅とホテルの間を往復した親父は通常、
車で1時間かかる ところを30分で行ってきました。 

 でもそれやこれやで新郎新婦が披露宴の席を外してから色直しを終えて
席にまた戻っ てくるまで1時間かかりました。 

当然それまでは披露宴の座が持たない。 

 上記の事情を、司会をやってくれている私の友人だけには知らせて
「なんとか戻って くるまで時間を稼いで座を持たせてくれ」と頼んでおきましたが、
新郎新婦が戻って くるまでの間、この司会の友人の四苦八苦ぶりは大変なものだったと後で聞きまし た。 

なにせ座をもたせなくてはいけない。 
披露宴の予定終了時間がとっくに過ぎていることに招待客に気付かれてもいけない。 
だからひたすら座を盛り上げて招待客に時間が過ぎるのを忘れてもらうしかない。 

というわけで司会の友人は、一旦スピーチや出し物のかくし芸を終えて
ヤレヤレとほっと一息ついている私の友人達に対して
片っ端から再度出し物を要求したのだそう です。 
それを私達が披露宴会場に戻ってくるまで延々1時間続け、
また催促された友人達も 「なにか変だなあ」と思いながらも、
芸をもう1つ披露してこれに協力してくれたの だそうです。 


その時の模様は新郎新婦がいない間も披露宴の様子を
記録していた当時のVTRにしっ かり残されていて、
今でもそれを見るたびに気の毒やらおかしいやらで、
なつかしさと共にその時出席して
協力してくれた友人達の友情に対する感謝の念が湧いてきま す。 


 そのように友人達の涙ぐましい努力で披露宴が維持されているうちにやっと洋装が届き、
色直しした新郎新婦が再度披露宴の会場に登場。 
キャンドルサービスや両家を代表しての私のスピーチの後、出席者全員で記念写真を 撮り、
予定時刻を2時間オーバーしてやっと披露宴はお開きになりました。

 ただ、この披露宴が延々と間延びしたことで一番迷惑を被ったのは、
当時私が勤務し ていた職場(広島県福山市にある日本鋼管(=現JFEスチール)福山製鉄所)から
この日津山市での式に参加してくれた上司・先輩・同僚達でしょう。 

岡山県津山市というのは岡山市と鳥取市の中間に位置する山間の中小都市で、
福山に住む彼らが主として乗ってきた岡山・津山間の津山線は、
1時間に1本の鈍行(岡 山・津山間で2時間かかります)と
2時間に1本の急行(同1時間)が通るローカル路線です。 
従って1本急行に乗り遅れるとまた2時間次の急行を待たなければならない。 

忙しい彼らにとってはどの急行に乗れるかによってそのあとのスケジュールが大幅に変わってくるのに、
肝心の私達の披露宴がベタ遅れに遅れてその予定が全然立たない。 
そして2時間間延びしてうれしややっとその披露宴が終ってくれたかと思ったら
次の急行の発車時刻が迫っている。 

それで、福山から来てくださった招待客の方は皆、
部長も課長も係長も先輩も同僚も県会議員も市会議員も、
披露宴が終ると脱兎のごとくホテルを飛び出して、
津山駅まで一生懸命かけっこする羽目になったそうです。 

新郎新婦である私達は披露宴が終ると即、
女房の弟の運転する車でヨーロッパへの新婚旅行に飛び立つために大阪空港に向かいましたので、
上記の事情は知らなかったのですが、
新婚旅行から帰ってきた後の職場でそのことを聞かされ、
ただただ恐縮するばかりでした。 

 今でもその時私達の式に参列してくださった方にお会いする度に
「君達の結婚式は散々でひどい目に会ったがしかし面白かったなあ」
と変な感心のされ方をします。 
中には「非常に面白かったのでできたらもう一回やってくれ」と、
女房が聴けば柳眉 を逆立てるような発言をされる方もいます。 

 それが私の「42年前の今日」ですが皆さんはいかがでしょうか。 


 それではまた。


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