昭和26年生まれはハッピー・ジェネレーション!?】



こんにちは。


さて、今週は日曜日・月曜日と宮崎県への出張でした。

その行き帰りでJALを利用したのですが、その機内誌「スカイワード」

に作家・浅田次郎の「ハッピー・ジェネレーション」という題のエッセイが載っていました。


浅田次郎は昭和26年=1951年の生まれなのですが、その

「昭和26年生まれは、日本史上最高、いや人類史上最高のハッピー・ジェネレーションではないか」

と言うのです。


実は私も昭和26年生まれです。


「自分が幸福か不幸か」と考えたことはあっても、

昭和26年生まれを一括りにしてそれが「幸福か否か」と考えたことはなかったので、

この浅田次郎のエッセイには久し振りに新鮮な衝撃と知的な好奇心を覚えました。


あるいは既にお読みになった方もおられるかと思いますが、

まだお読みになっておられない方のご参考までに、

そのエッセイを以下ご紹介いたします。



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  ハッピー・ジェネレーション

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 浅田次郎

(JALグループ機内誌「スカイワード」つばさよつばさ第233回)


前々から、そうなんじゃないかと思っていた。

ハッピー・ジェネレーション。

1951年すなわち昭和26年生まれの私は、多分日本史上最高の、

いやもしかしたら人類史上最高の幸福な世代なのではないかと。


確信を抱いたのかコロナ禍においてである。

算(かぞ)え73歳、癸卯(みずのとう)の年男となるご同輩は、

当然のことながらコロナが流行し始めたころには

ほぼ全員がリタイヤしており、

家で穴熊を決めこんでいても何ら問題はなかった。

そのせいか東京に住まっていながら、

感染したという友人を知らない。


多くの場合は配偶者との二人暮らしで、

子や孫の一家とは別居している。

食料の買い出し以外には、さしあたって外出の必要がない。


予防医学の見地からは、圧倒的に有利な私たち。

もしやハッピー・ジェネレーション。


そう気付いてわが人生を顧みれば、いわゆるバブル景気のころに

いい思いをしたのは私たち。

それ以前も高度経済成長が長く続き、

物価は上がったが所得は更に伸びた。

進学も就職も今の人に比べればずっと楽で、

人並みの努力をしていれば何とかなった。


さらに記憶を遡れば、

1964年の東京オリンピックの折は中学1年生。

平和と繁栄を体感したまさしくエポックメーキングであった。


私たちより3つ4つ年長のいわゆる団塊世代は、

幼少時に食料難を経験している。

しかし私たちの世代になると、個別の事情はともかく

社会全体においては、もはや飢える時代ではなかった。

小学校で給食が用意されるようになったのも、

おそらく私たちの世代からであろう、


要するに私たちは、戦後復興とそれに続く高度経済成長の申し子であった。

よってこのハッピー・ジェネレーションのおじいさんおばあさんは、

消耗していない分だけ元気で、かつ健啖で活動的なのである。

 孫にはひた隠しているが、おじいさんはたいてい上手にギターを弾く。

 おばあさんはスマホで「60年代洋楽」をひそかにダウンロードし、

英語の歌詞を唱和している。


むろん私もその1人であるが、

年寄りのイメージというのはすでに固定化しているので、

「善良なおじいさん」を装うのは実に簡単。


 つまり、そうした私たちが隠居したとたん、

入れちがいにコロナがやってきた。

ハッピーというより、ラッキー・ジェネレーションと呼ぶべきかも知れぬ。


 ところで、そうした私たちが生まれた昭和26年とはどんな年だったのであろう。


1月3日

第一回NHK紅白歌合戦。旧東京放送第一会館スタジオからのラジオ生放送。

前年に勃発した朝鮮戦争の特需で好景気となる。


4月

マッカーサー元帥解任。この年、続々と公職追放が解除。


7月

第一回プロ野球オールスターゲーム開催。


9月

対日講和条約調印。同日、日米安全保障条約調印。

同月、黒澤明監督の「羅生門」がベネチア国際映画祭でグランプリに輝く。


10月

力道山が国際プロレス大会に初出場。同月、民間航空再開。

「日本航空」一番機が羽田を離陸。


12月

クリスマスイブのダンスホールは終夜営業。

一方、大手百貨店「三越」労組は都内3店舗で48時間のストライキに突入。

「三越にはストも ございます」という流行語は傑作である。



さて、このように世の中の出来事を並べてみると、

ずいぶん自由で溌剌とした年であったらしい。いかにもハッピー・ジェネレーションが

生まれた年、という気がする。


 終戦からわずか6年を経て生まれた私たちは、今の若者たちと同様、

戦争を遠い昔話のように考えていた。そうした歴史認識は子供も孫たちも同じであろう。

つまり、78年にわたる平和によって今やほとんどの国民が、同じ世界観を持っていると言える。


昭和26年の新聞縮刷版を拡げたついでに、大正13年の記事を読んだ。

1924年。すなわち父の生まれた年である。


東京は前年9月の関東大震災で壊滅。

復興の槌音の中で父は生まれたことになる。


1月

清浦奎吾内閣成立。政権の支持をめぐって政友会が分裂するという波瀾の幕開け。

同月、摂政宮裕仁親王ご成婚式。


4月

イタリア総選挙でファシスタ党が圧勝。ムッソリーニの独裁体制開始。


5月

第15回総選挙で護憲3派が大勝。与党政友本党は政権交代を余儀なくされる。


6月

加藤高明内閣成立。このころから米国の排日運動を批判する記事多し。


9月

震災時の大杉栄殺害の報復として、無政府主義者が元戒厳司令官福田大将を狙撃。

同月、嗜眠性(しみんせい)脳炎が全国で流行。

死者 3310人。眠ってばかりいる病気か。なんだか怖い。


11月

孫文が神戸において演説。アジア諸民族の団結を強調。

このころから 学生軍事教練反対運動が起こる。

ちなみに学校における軍事教練は軍国主義への傾斜というより、

軍縮の時代に居場所のなくなった将校たちの救済策であったらしい。



いやはや、暗い時代である。というより、

ジャーナリズムが社会をそうした目で見てしまっている。

明るいニュースは控え目に報道され、

暗い話題がことさら紙面を占領しているのである。



さて、このような時代に生まれ合わせた父は実に不幸な人生を歩まされた、

アンハッピー・ジェネレーションと言える。

3年後の昭和2年には金融恐慌。

続いて張作霖爆殺事件、満州事変、満州国建国と、

わけのわからぬ謀略の嵐。

小学校を出て小僧に出された父は、

待てども電車のやってこない雪のプラットホームで、

二・二六事件の発生を知った。

 算えの13歳。何が起きたかは知らぬが、

背負った荷物が重くてならず、

裸足に空ッ脛が寒くてたまらなかったと語った。


そしてあろうことかこの世代は、昭和20年1月の現役入営であった。

殴られるために兵隊にいったようなものだが、

死ななかっただけマシだと父は言った。

その軍隊から毛布1枚をもらって復員した東京は、

生まれたころと同じ焼け野原であった。


アジア太平洋戦争を戦ったのは、およそ大正世代である。

つまりそのアンハッピー・ジェネレーションンの犠牲の上に、

私たちハッピー・ジェネレーションが出現したことになるのだが、

学校で近現代史をきちんと教わらなかったせいで、

父とそのご同輩たちの人生を、私はまったく想像することができなかった。

血を分けた倅が、父親の生きた時代を知らなかったのである。



個人的な境遇のちがいはあろうけれど、

国家と社会が定めた枠の中で、

国民は似たような人生を送らねばならない。

その避けがたい宿命を思えば、

かえすがえすも私たちは幸福な世代である。

今さら何ができるわけでもないが、

せめてその自覚を持たなければ。



浅田次郎/作家。1951年、東京都に生まれる。

「鉄道員(ぽっぽや)」(直木賞)、

「壬生義士伝」(柴田錬三郎賞)、

「お腹召しませ」(中央公論文芸賞・司馬遼太郎賞)、

「中原の虹」(吉川英治文学賞)「終わらざる夏」(毎日出版文化省)、

「帰郷」「(佛次郎賞)bなど、多彩な作風で

多くの読者を魅了し続けている。2015年、紫綬褒章受章。

 


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私個人についていえば、今も仕事をしていて外出はしなければならず、

また受験にも人並以上に苦労しましたし、

バブルの頃にいい思いをしたことなど全くありません。


その点、浅田次郎の「昭和26年生まれの記憶」とは異なっているのですが、

そういう個々人の差を排して、「他の世代との比較論」という観点から言えば

「ここに書かれていることは概ね当たっている」とも思います。


また私の父は大正14年生まれで浅田次郎の父とは1歳違いでしたが、

兵隊に行っていますので、同じような経験をしたのだと思います。

しかしその父が生きた時代のことを私も何も知りません。

父と父の生きた時代のことについて話したことなどほとんどないからで、

今にして思えば、その父ともっと話してその思いを聴いておくのだったと思います。


浅田次郎が言うように、私達は「国家と社会が定めた枠の中で、

似たような人生を送らねばならない」わけで、そのことは、かつての父の世代同様、

今、ウクライナの人達が最も強く感じていることと思います。


「その避けがたい宿命を思えば、今さら何ができるわけでもないが、

せめてその自覚を持たなければ」という浅田次郎の結論に私も同意します。


 それではまた。




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